バッドフィンガー物語 第6回

バッドフィンガー物語 第6回

写真は、左からアルウィン・ジェンキンスとビル・コリンズ 引用元:Without You – The Tragic Story of Badfinger
バッドフィンガー物語 第6回
現時点のメンバー:バンド名『The Iveys(アイヴィーズ)』
ピート・ハム(ギター)
マイク・ギビンズ(ドラム)
ロン・グリフィス(ベース)
ダイ・ジェンキンス(ギター)
アルウィン・ジェンキンス(マネージャ兼ローディー)
ビル・コリンズ(新マネージャー)
◎アイヴィーズが、ライブハウス「チボリ」で巻き込まれたケンカの話
アルウィン・ジェンキンス(マネージャー兼ローディー)「僕が気がつく前に、ホール全体が大混乱に陥っていたんだ。
2回ほど、文字通り客席(桟敷)に投げ出されたのを覚えているよ!
最終的に、※以下バンド名『アイズ・オブ・ブルー』、『ジェッツ』、『コーンクラッカーズ』が加勢しに現れたんだ。
僕たちを助けるためだけに、掛け声のような言葉とともに戻ってきれくれたんだよ。」
時たたずして、今度はピートのバンド「アイヴィーズ」が恩を返す機会が訪れます。
元『リキッド・アンブレラ(Liquid Umbrella)』のビビアン・スピーブ・モリスはこう振り返ります。
「アイヴィーズと、ロンドンのイカした黒人バンドの『ペリネラ(Pellinera)』が一緒に対バンした時のことさ。
場所は、リーガル・アンマンフォード・バルルーム(Regal Ammanford Ballroom)だった。いいホールだったけど、よくケンカが起こるから、たいていのバンドたちは、そこでのギグを断ってたんだよね。
で、そん時、僕のバンドはステージにいた。
ピート・ハムのアイヴィーズはステージの横にいて、黒人グループの『ペリネラ』は反対側の客席(桟敷)から、僕らを見下ろしていたんだ。
僕はサングラスをしていたんだけど、オーディエンスの中から突然「ひとりの男」が踏み出して来て、僕のサングラスを奪ったから僕は飛び降りて取り戻したよ。
そのすぐ後、そいつがまるで『West Side Story(1961年に公開されたミュージカル風のアメリカ映画)』の出演者みたいに、ぶらぶらしながらこっちに来て、僕と地方巡業マネージャーの方にどんどん近づいて来たんだ。
そして、いきなり僕の手からマイクを奪い取って、頭と顔を殴ったんだよ!
時すでに遅しで、その時にはもう『ペリネラ』は客席(桟敷)から飛び降りていて、まわりは大混乱に陥っていた。僕は、顎(あご)の骨が折れているのが分かったから、丸くなって顔を守ったよ。
床は体育館みたいにつるつるしていたから、やつら(ペリネラ)は僕を蹴りはじめ、まるでボーリングのボールみたいに滑りまわっていたよ。
その時、ピート・ハム(僕の知る限り彼は確実に平和主義者なんだが…)がやって来て、やつら全員をどうにかして僕から引きはがしたんだ。
僕を起こして【大丈夫か?】って聞いた。それから、ペリネラがまた来て、後ろからピート・ハムを思い切りイスで殴ったんだ!
その後ピートは、すぐ振り向いて、やつの頭をぶん殴ったんだよ」
1966(昭和41)年4月29日、アイヴィーズはまたアンマンフォード(ウェールズのカーマーゼンシャーにある人口5400人ほどの炭鉱の町)のリーガル・バルルームで演奏をしていました。
そこで、あるひとりの男性が彼ら(アイヴィーズ)に魅了され、そしてその男性はその後すぐに、彼らの人生を変えることになるのです。
ロン・グリフィス(アイヴィーズのベース)はこう振り返ります。
「僕たちが演奏をはじめて半分くらい過ぎたところで、ホールをうろちょろ歩き回る人物がいたんだ。そしてその【年配者】が、たち止まって僕たちをじっと見てたんだよ。
僕たちのことを見てくる年配者なんて今までいなかったしね。
その夜の終わり、その男がやって来てアルウィン・ジェンキンス(マネージャー兼ローディー)にこう言ったんだ。
【彼ら(アイヴィーズ)は魂(ソウル)を目いっぱい込めて演奏しているね。何か持っていると思うよ!】
そして僕はとても恥ずかしくなったんだ。なぜなら彼が、僕に手を回してこう言ったから。
【君はとんでもなく素晴らしい声をしているよ。】」
この年配の男というのは、本名ウィリアム・ダニエル・コリンズ(William Daniel Collins)といって、一般的には「ビル・コリンズ(Bill Collins)」という名前で、のちにバッドフィンガーのマネージャーとして有名になる人物でした。
ビル・コリンズは1913(昭和2)年、イギリスのバーケンヘッド(Birkenhead)で生まれました。
バーケンヘッドの町は、イングランドのマージーサイド(Merseyside)の一部で、リバプールから湾をひとつ渡ってすぐの所にあります。
ビルは、1930年代に様々なバンドのピアニストとして活動しましたが、第二次世界大戦によって彼の音楽キャリアは中断せざるを得ませんでした。
戦争中、彼は戦艦のマストを作っていましたが、それでも時間を見つけては「色々な場所」で演奏し1950年代初期には、趣味として自動車の修理もしていました。
息子のルイス(Lewis)・コリンズが音楽に興味を持ち、自分の夢だった「ミュージシャン」になりたいと言ったときには全力で応援し、ルイスが13歳になった時には、ビル・コリンズのダンスバンドで色んなジャンルのドラムを演奏させたりもしました。
1963(昭和38)年、そのビルの息子であるルイス・コリンズは、ロックグループ『モジョス(The Mojos)』に加入し、1964(昭和39)年“Everything’s Alright”という楽曲をリリース、イギリス国内でヒットしました。
ビルはよく、その息子のバンド『モジョス』の運転手をしていました。
また、短い期間ですが、あの『キンクス(The Kinks)』の地方巡業マネージャーとして働いたこともあります。
1966(昭和41)年には、ルイス・コリンズは理容師としての職に就くため『モジョス』を辞めていましたが、ビルは引き続きバンドの巡業を手伝いました。
ビル・コリンズは、彼らをとてもよくサポートしていましたが、自分が『モジョス』と一緒に色々な所へ行く一番の目的は、
「自分がマネージメントをして作り上げられるようなグループを見つけるためだった」
と、多くの人に語っています。
アルウィン・ジェンキンスは、コリンズがその運命の日にアイヴィーズを見つけた時の熱意を、こう振り返ります。
「みんなでミニバスに乗り込んで、一緒に話をしたんだ。
ビル・コリンズは、いかに僕たちに興味があるかを語ったよ。明らかに僕らに夢中になっていたね。」
コリンズは、アイヴィーズと連絡を取り続けました。アルウィンはこう続けます。
「手紙だよ。ビルから山ほど手紙をもらった。すさまじいほど手紙を書いていた。40ページの手紙だって書けたんじゃないかな。ペンは役に立つね。」
ビル・コリンズは最終的にウェールズに舞い戻り、ニース(Neath)の労働者クラブでおこなわれた「アイヴィーズの演奏」をテープに録音しました。
彼はマイクをまっすぐにP.Aの前に置き、ひどくバランスの悪いレコーディングであったにも関わらず、彼らの演奏の本質を捉えることに成功しました。
その楽曲のほとんどが、当時でいう「リズム・アンド・ブルース」志向でした。
アイヴィーズは、ビル・コリンズによって綿密に研究され、彼に興味を持たれていることに、まだ半信半疑でした。
ロンはこう言います。「分からなかったんだ。この界隈で、自分たちが音楽業界への神様からのプレゼントだと本当に思っているやつらなんて、ほとんどいなかったんだ。僕たちはとても田舎者で、自分たちのやっていることを単純に楽しんでいるだけだったからね」
しかし、ビル・コリンズは「アイヴィーズ」を信じ、そしていよいよ、タッグのスタートを切るときがやって来ます。
ロン・グリフィスはこう語ります。
「『モジョス』は、ロバート・ウェイス(Robert Wace)という経営者が経営する事務所「Harold Davidson」に所属していた。
『キンクス』と『スモール・フェイセズ(Small Faces)』もウェイスに所属していて、デイヴィッド・ギャリック(David Garrick)もそうだった。
ギャリックは、『ローリング・ストーンズ』の“Lady Jane”のカバーでヒットチャートを駆け上っている最中で、どうしてもツアーバンドが必要だったんだ。
だからビル・コリンズは、デヴィッド・ギャリックに、サポートバンドをオーディションをするよう促し、
アイヴィーズには、こう言ったんだ。
【週末、ロンドンに行かないかい?街を見て、オーディションをして、楽しもうじゃないか?】
それで、僕たちはそうしたんだ。長い週末だったよ!」
つづく…
吉田メモ:
今回は、けんかの話とマネージャーとなるビル・コリンズが登場しますね。ビルの息子があの『モジョス』のメンバーだったとは知りませんでした。
また、ふだんはおとなしいピート・ハムも、仲間のためには相手を攻撃することもある「勇敢」な一面も垣間見れましたね。
昔、キンクスのレイ・デイヴィスが、アイヴィーズのプロデュースをかって出た話を聞いて、どの縁だろうか?と気になっていましたが、息子のバンド『モジョス』の所属事務所がキンクスと同じだったんですね~