バッドフィンガー物語 第4回

バッドフィンガー物語 第4回

現時点のメンバー:バンド名『The Iveys(アイヴィーズ)』
ピート・ハム(ギター)
テリー・グリーソン(ドラム)新加入
ロン・グリフィス(ベース)新加入
ダイ・ジェンキンス(ギター)
アルウィン・ジェンキンス(マネージャ兼ローディー)

近隣や地元の才能の大進撃(若手のバンドグループ)がスウォンジーに殺到すると、『Beaterama』は、増大するロックンローラーたちのメッカ(聖地)となりました。

小さな田舎町では、20時にはほとんどすべてのお店が閉まっていました。

つまり、こういったバンドが一番望むのは「若者」のギグ(コンサート)でしたが、18時に学校のホールで「キッズ(子供たち)」を観客に行うギグになってしまうのです!

しかしスウォンジー(ウェールズ南部の都市)には独特な雰囲気があり、あらゆるジャンルの音楽ファンたちをひとつにまとめていました。

ロッカーのデイヴ・エドモンズ(Dave Edmunds)※1はこう語ります。
※1 デイヴ・エドモンズは英国で1970年代から80年代にかけてパブ・ロック、ニューウェイブで活躍したアーティスト

「僕はカーディフのライブハウス『ディスクス・ア・ゴー・ゴー(Disks A Go Go)』で働いていた。カーディフは僕の地元だけど、いつもスウォンジーのほうが格好いいように思えた。

全体的に、カーディフ(ウェールズの首都)より、良いミュージシャンたちがいたし、より良い会場(ライブハウス)があった。それに、僕のバンドを気に入ってくれたエージェント(本人の代わりに契約や取引をしてくれる代理・仲介業者)もあったんだ。」

そのエージェントというのは、ヴァーニー・レイ(Vernie Ley)でした。
彼の芸能事務所「Ritz Entertainments」は、スウォンジー近郊で頂点に君臨するクラブのひとつである『ザ・リッツ(The Ritz)』を経営していました。

レイの他にも、モーリス・レベンソン(Maurice Levenson)=通称シュムー(Schmoo)は、ジャズで有名なライブハウス『グランモール・ジャズクラブ』を、流行のロックンロール・バンドのために門戸を開きました。

エージェントのデューク・マッケイ(Duke McKay)は、『チボリ(Tivoli)』と、デイヴィッド・スコット(David Scott)は『グレン(Glen)』と契約しました。

このスウォンジーの音楽シーンについて何か言えることは、地元のアーティトたちが極めて似たような性分だったということです。

有名な『エイメン・コーナー(Amen Corner)』※2のアンディ・フェアウェザー・ロウ(Andy Fairweather-Lowe)はこう振り返ります。
※2 カーディフ出身で1966~1969に活躍したポップ・ソウル・グループ

「僕はカーディフ(ウェールズの首都)に住んでいたんだが、その音楽シーンはとても閉鎖的で、みんな仲が悪かったんだ。でもスウォンジーでは、みんながみんなのことを知っていて、みんな誰とでもしゃべって、みんなで助け合って、みんな開放的だったよ。」

スウォンジー出身のドラマー、テリー・ウィリアムズ(Terry Williams)はこう賛同する。

「その通り!外から来たバンドも、いつでも歓迎された。そう感じてもらえるようにしていたんだ。彼らを招待する場所もあったしね。」

仕事後のたまり場として一番有名だったのは、街の中心にあるインド料理店の『ザ・オリエント(The Orient)』でした。

この音楽シーンのベテランで、『マン(Man)』※3 の最後のギタリストでもあるディク・レオナルド(Deke Leonald)は懐かしんでこう語る
※3 1968年から活躍するウェールズ出身のプログレッシブロック、サイケデリックロックバンド

「当時のほとんどのインド料理店と、同じような雰囲気だったよ。柔らかい壁紙に、重たいリネンのテーブルクロス、大きくて重たいカトラリー、燃えるように辛いカレー。でもそこには【シング(Singh)】という名前のウェイターがいて、すごくいいやつだったんだ。バンドたちは彼を愛していた。もっとも、シングはバンドよりも彼らが置いていくお金のほうが好きだったと思うけどね。(笑)」

この深夜のたまり場の外では、6、7台のバン(楽器の機材を運べる車)がひしめき合って停められているのが当たり前で、夜にうごめく車上荒らしたちのやる気を萎えさせていました。

多くのバンは、女の子の名前や落書きだらけの救急車や霊柩車風に改造されていたからです。

インド料理店『ザ・オリエント(The Orient)』は、ミュージシャンや流行を追う若者たちで溢れ、ギグやギターやあらゆるゴシップについて討論し合っていました。

よその町のアーティストたちとも、たいていは親しい交流がありました。
地元のギタリストのビビアン・スピーブ・モリス(Vyvan “Spiv” Morris)はこう振り返ります…

「大きなバンドがみんな僕らと話しに来るんだ。
【ザ・フー(The Who)】、【ホリーズ】、【マンフレッド・マン(Manfred Mann)】、それに【ヴァン・モリソン(Van Morrison)】とその不愛想な仲間たちさえ、テーブルを囲んで一晩中言い争っていたよ。活気に溢れていた。」

他には、モッズ族のたまり場で、蜘蛛の巣だらけで棺の蓋をテーブルにしている、ぞっとするようなレストランの『マカブル(Macabre)』や、ラウンジが中二階にあり、セラー・クラブ(Celler Club)内で一晩中即興演奏が行われる『マキシーズ・ナイトスポット(Maxie´s Nightspot)』というクラブもありました。

ピート・ハム率いるバンド『アイヴィーズ(The Iveys)』にとっては、こういう状況がしっくり来てはいましたが、その中で特別に目立つことができずにいました。

『メテオライツ(The Meteorites)』、『ジェッツ(The Jets)』、『コーンクラッカーズ(The Corncrackers)』といったバンドが傑出していましたが、最終的に最も輝きを放つことになったのは、『バイスタンダーズ(The Bystanders)』と『アイズ・オブ・ブルー(The Eyes Of Blue)』の2つのロック・バンドでした。

この2つのロック・バンドの強みとなったのは、ボーカルの力強さでした。

『バイスタンダーズ』は、『フォー・シーズンズ(Four Seasons)』や『ビーチボーイズ(Beach Boys)』のサウンドをとてもよく再現していました。

一方で『アイズ・オブ・ブルー』は、様々な音楽ジャンルを表現する極めて多才なロック・グループでした。

ロン・グリフィス(アイヴィーズのベース)は語ります。

「僕にとっては、【アイズ・オブ・ブルー】がスウォンジー周辺では最高のバンドだった。6人組のバンドで、全員歌が上手だった。リッチ・フランシス(Richie Francis)は信じられないくらい素晴らしいベースプレイヤーで、本当の革新者だったし、タフ・ウィリアムズ(Taff Williams)は、億万長者になっていたっておかしくないくらいのギターの腕前だったよ!」

このバンドには他に、リードボーカルとしてゲイリー・ピックフォード・ホプキンス(Gary Pickford Hopkins)とウィンダム・リーズ(Wyndham Rees)、キーボードとしてフィル・ライアン(Phil Ryan)、ドラムスとしてジョン・ウェザーズ(John Weathers)がいました。

1960年代中頃、彼らはおそらく地元のバンドの中で、最も成功に近いバンドでした。

いっぽう、ピート・ハムのバンド『アイヴィーズ』は、まだまだ形成途中で、発達途中だと考えられていました。

1965(昭和40)年の初め、『アイヴィーズ』のドラマーのテリー・グリーソンが仕事を始め、時々夕方にも働くことになったので、バンドはギグ(コンサート)を断らなければならないようになりました。

3月には、バンドは彼に、スケジュールを調整するか、さもなければバンドを去るかという最後通告をしました。

当時の『アイヴィーズ』のマネージャーのアルウィン・ジェンキンスはこう振り返ります。

「テリー・グリーソン)は何度も何度も仕事を変えようとした。でも結局はあきらめたんだ。だけど誰も悪くは言わなかった。新しいメンバーが見つかるまで、テリーが穴埋めをしたよ。」

『アイヴィーズ』は、新ドラマーを探すべく新聞に広告を載せましたが、うまくは行きませんでした。

その後、地元のビートニックのシュムーが、仲間のマイク・ミッキー・ギビンズ(Mike “Mickey” Gibbins)を紹介しました。

ロン・グリフィス(ベース)は、マイクに初めて会った時のことをこう思い出します。「父が、スクーターの後ろに僕を乗せて彼の家まで送ってくれたんだ。

…つづく。