バッドフィンガー物語 第3回

バッドフィンガー物語 第3回

現時点のメンバー:
ピート・ハム(ギター)
ダイ・ジェンキンス(ギター)新加入
ロイ・アンダーソン(ドラム)
ジョン・ホレル(ベース)
脱退:デイヴット・フランクリン(ギター)

アルウィン・ジェイキンス(当時の非公式マネージャー兼ローディー)
「でも僕らはすごく仲良かったよ。僕はレコーディングに夢中で、大切にしていたボルテックス(Vortexian)のモノラルテープレコーダーのことをいつも話していた。ピート・ハムはよくバカにしてこう言ったよ。

『もし僕が有名になったら、別のを買ってあげるよ。別のボルテックスをね!』」

ピート・ハムの修理の知識はどんどん広がっていき、古い英国空軍のものを改造して、バンドのために拡声装置を作りました。

自身やバンドの、ギターやアンプをいつも修理して「アルウィン・ジェンキンス」がこういった大工仕事を手伝っていました。

こういう仕事には付き物なのですが、うんざりする出来事が増えつつありました。ある日、スウォンジーのエンバシー・バルルーム(Embassy Ballroom)でギグがあり、そこで『フリー・ナイト(Free Night)』という、週に一度の催しがあり、たくさんの観客を集めていました。

4つのグループが、最もダンサブルなナンバーを演奏する予定でいました。
ロイ・アンダーソン(ドラム)は語る「ピーターはとても興奮していたよ。前のグループが使っていた良い器材を使えるチャンスがあったのに、自分が作ったハンドメイドのアンプを使うと言い張ったんだ。

僕らは十分なリハーサルをしていなくて、3曲目か4曲目の時に、スピーカーがぶっ飛んだ。観客たちが、曲が終わるたびにとても不満そうにしていたのを覚えているよ。」

そのすぐ後、アベルクラフ(Abercrave)で開催された「タレントコンテスト」で3位に終わり、ピート・ハムはすっかり荒んでしまいました。

ロイ・アンダーソン(ドラム)「コンテストが終わった後ほど、ピートが落ち込むところを、それまで見たことがなかったと思うよ。自分たちの演奏が上達しないことに、我慢できなくなってたんだね…」

ロイ・アンダーソン(ドラム)はグループの方向性が見えなくなるとすぐに、グループを辞めました。

しかし、ピート・ハムの決意は、固いままでした。

その後すぐ、ピート・ハムは、『ジャガーズ(The Jaguars)』という地元のバンドの若いドラマーに感銘を受けて、「テリー・グリーソン(Terry Gleason)」を新しいドラマーとして加入させました。=彼は年長者で、キャバレーを愛する有能なミュージシャンでした。

そしてベ-ーシストのジョン・ホレルも、すぐにメンバーチェンジされることとなりました。

新しいベーシストの名前は、ロン・グリフィス(Ron Griffiths)といいます。

ロナルド・ルウェリン・グリフィス(Ronald Llewellyn Griffiths)は、1946(昭和21)年10月2日のスウォンジー生まれ。

学校の聖歌隊で初めて歌い、ハーモニーに対する音感の良さを開花させて行きました。その後、「ザ・ベンチャーズ(The Ventures)」や「シャドウズ(The Shadows)」といったバンドの影響でベースギターをはじめました。

ロン・グリフィスはこう振り返ります。

「【ジャガーズ】は僕にとって初めてのバンドだったんだ。楽器だけのグループとしスタートさせて、それからリードシンガーを加え、ハーモニーをやりはじめた。ちょうど、ビートルズが大ヒットした頃だったよ。」

「ある日、ドルフィン(Dolphin)での結婚披露宴でギグをしていた時、ピート・ハムとアルウィン・ジェンキンス(マネージャ兼ローディー)が来て、まるでハゲタカみたいに僕のことをじっと見てたんだ。

明らかに、僕に近づくつもりだったんだね!

だって、そのものすごく酷いギグの終わりに僕のところに来て、自分たちのグループに入りたいか?って聞いたんだから。

僕は彼らのリハーサルを見に行って、ピートの演奏と振る舞いにとても魅力されたんだ。

ピート・ハムはブルース風の曲をセブンス・コードで弾いていたんだ。当時としてはすごいことだった。仲間に入るって決めたよ。」

ロン・グリフィス(ベース)が加わり、バンドは新しい名前が必要だと感じました。

ワイルド・ワンズという名前は、モッズ族とロッカーとの間に、ブライトン(Brighton)=イギリス南の都市 で起こった有名な暴動を取り上げた新聞の活字から取ったもので、彼らは気に入っていませんでした。

今度は、もっと自分たちのサウンドを表現するような名前にしたくなりましたが、いつも、思いついた名前と似たような名前のバンドを見つけてしまうのです。

最終的に、可能性のある名前を紙切れに書き出して見渡しました。

ロン・グリフィス(ベース)が、『アイヴィーズ(The Iveys)』という名前を書き足しました。スウォンジーに、アイヴィー・プレイス(Ivey Place)という小さな道があることを思い出したからです。

ダイ・ジェイキンス(ギター)はこう言います。「僕らは“Poison Ivy”という曲が好きで、ホリーズ(Hollies)を崇拝していた。たくさんの理由から、そうなったんだ。」

機は熟しました。

新しい顔ぶれで、バンドはリチャージ(再復活)されたようでした。「アイヴィーズ」として最初のギグは、ボン=ア=マイン(Bon-y-Maen)のラグビークラブでのタレントコンテストでした。ミュージカル『Carousel』の曲“If I Love You”のハーモニーバージョンを演奏し、なんと3位になりました。

1964(昭和39)年の秋と冬、そしてその翌年の初めにかけて、『アイヴィーズ(The Iveys)』はスウォンジー周辺で演奏していました。

しかしお金を稼げたとしても、わずかばかりでアルウィン・ジェイキンス(マネージャー兼ローディー)はこう振り返ります。

「当時は稼いだお金より、経費のほうがはるかにかかったよ。バン(移動用自動車)にはずっとたくさんお金がかかった。

ギアボックスだったり、バックアクスルだったりに、いつでもパーツが必要だった。ダイはメカニックだったから、自分たちで修理していたんだ。でもアンプやギターもあった。いつでも小さな部品が必要だった。信じられないくらい経費がかかったよ。」

その頃には、スウォンジーは南ウェールズでのロックンロールの安息地となっていました。

カーディフ(Cardiff)も唯一同じような場所でしたが、スウォンジーは特別でした。スウォンジー生まれのコンラッド・アトキン(Conrad Atkin)は、ロンドンの新聞業界から戻った後、1963年に地元紙『Herald Of Wales』の代理編集者としての仕事を得ました。

アトキンは、この「眠れる小さな町」が、荒れ狂う音楽のメッカへと変貌し、最終的には20マイル(32㎞)の範囲に360ものバンドがひしめくようになったことを知りました。

コンラッド・アトキンはこう語ります。

「僕は、ゲイリー・ラッド(Gary Radd)というペンネームで『Beaterama』というコラムを始めることにしたんだ。ロンドンにいた頃に得た音楽業界へのツテがいくつかあって、町の出来事のページに毎週記事を書いた。」